ホーム > 私が考える古民家再生とは
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私は昭和21年に現在の地(福島市桜本)に生まれ、今年62歳を数えました。市内の加藤建築に16歳で弟子入りして以来、大工歴46年、屋号である三浦工匠店を立ち上げて36年になり、その間、7人の弟子を育て、その弟子達と今もなお、囲まれて仕事が続けられることに誇りを感じています。
そうした日々の中で、家づくりの究極は数寄屋造りにあるのではないかと考えています。その数寄屋造りとの最初の出会いは、
23年前に東京で行われた「日本建築セミナー」でした。このセミナーは当時、“卒業のない学校”とも言われました。講師陣は、日本建築界のトップである設計者ばかりで、私のような建築大工は、会場の10分の1程度しかおらず戸惑うばかりでした。
月2回ここで行われる4時間の講義と全国各地の建物物を巡る研修は、時間と金を要す大変なものでしたが、23年目となる現在も何とか続けております。建物研修は文化庁が管理する文化財の解体・修理の現場がほとんどで、文化庁の課長さん自らが説明に当たり、国の重要な文化財に触れ、本物の“すごさ”を体験し本物の建築はいつの時代になっても色あせないことを学べたことは生涯、私の大きな宝物であります。これからも日夜研鑽に励み、何時しか私も後世に残せる建物の建築と保存に努めたいと思います。(写真=福島市佐原の佐藤邸で講演をしました)
早速、本題に入りますが、私がこれまで学んできたことは教科書にはない大工の雑学としてお聞きください。
大工の流れからお話ししますと、“宮大工”と言われる人達は立川流や大隅流の流れを汲んでいます。また、風雅さやワビ(侘び)・サビ(錆び)を取り入れた数寄屋大工、町場専門の町屋大工、農家型住宅は家(や)大工という人達が造っていたのだと思われます。また、細かな仕事をするサシモノ大工といわれる人達がいました。こうした仕事を一人前にできない人達をマニラ大工などと呼んでいたそうです。
本日の会場となりました佐藤邸(市内佐原)は地元の家大工・曳地太次郎さんが造ったと当家の書物の中に書かれております。当時はチョンナやマサカリで丸太をそまぎ、梁や桁など組んでおりまます。チョンナのナグリ目がとてもきれいで、見ていて飽きが来ないのは、やはり人の手を介して加工された業の凄さだと思います。当家の屋根裏に見て取れますので良く見てください。また、会場に昔使われました古道具と古民家や住宅に使われた継ぎ手130通りが分かる模型も用意しましたので後ほどご覧ください。(写真=会場に小道具、継ぎ手、模型も展示しました)
次に、日本の木についてですが、日本書紀のスサノオノミコトの話しには、「日本は島国だから舟がなければ困るだろう」と、自らの髪や胸の毛を抜いて蒔いたところ、檜、杉、楠、マキが生えたのです。そこでミコトは、それぞれの用途を示して「檜は宮殿に、杉と楠は舟に、マキは棺の材に使えと教えたと書かれています。こうして日本は神代の時代から木の使い方を教わり覚えてきました。木造舟は大変水に強い杉の赤味で、マキは大変腐りにくい木ですから棺おけとして使われてきました。伊勢神宮では、「20年の遷都」の際には檜が使われました。
古都・奈良の法隆寺堂塔伽藍は、今から約1370年前に建てられました。昭和の大改修に携わった西岡棟梁の話によると、カンナを一当てすると、いまでも檜の香りがツーンと鼻につくと言っておられました。腐った所は取り替え、根継ぎを施して修理が終わった時に、「この建物はあと、千年持ちますわ」と言っておられた西岡棟梁が印象に深く残っています。檜は1000年の木は1000年保つと言われますが、2000年以上保つということは、まさに驚異的な生命力です。一般の檜は200年間は強さを増し、それから800年ほど強さを保ち続け、その後徐々に下がっていくと聞きました。杉や松は太物で800年位、その後は老けていきます。欅はトビ腐れや風化が早く500~600年位しか保たないと言われます。木は風蝕により100年で約3ミリ減ります。1000年の建物は3センチ位減っております。皆さん、古建築を見るとき注意して見てください。柱の沓金物と柱の減り具合で大体の年代が分かります。
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